第三章「義」
新渡戸は武士道を全世界に紹介するにあたって第一に「義」を論じた。
「義」は正しい道筋のことであり、人の路(どこへ行くか決まったみち)
原文では 義、正義 を justice right righteousness どう表現しているのか?
<因みに書記の使用している和英辞典には「義 gi」の項目は存在しない。
「武士道」は「the code of the warrior ; Bushido」「武士道精神」は「the spirit of samurai」>
キリスト教世界の「義」、「愛は律法」「義理」は本来の「義務duty」「正しい道理right reason」の意味を失い、同調圧力のようになっている。
第二章「武士道の淵源」
・第二章「武士道の淵源」は、仏教から始まっているが、神道と孔子の影響力の二つの中にあると語っている。その淵源の何たるかを問わず、武士道が自己に吸収同化したる本質的なるは少数かつ単純であったとあるように、すでに、日本に古くから存在していた民族的本能が武士道の淵源のベースであった。
・クエーカー教徒の新渡戸稲造が、皇室を全国民共通の遠祖であり、我々の祖先の神聖なる棲所、としているのに驚いた。この本を書いた明治30年代の時代背景を意識したものか?
・現在の学校教育には道徳教育がないので、これから学ぶ『義』『勇』『仁』『礼』『誠』『名誉』『忠義』の精神を、ベースにできればよいのではないか。
・第二章「武士道の淵源」の中に、数多くの外国人の著名人が出てくるが、なじみがあまりなく一人一人を深く知らないと、新渡戸の「武士道の淵源」が深く理解できないのかもしれない。非常に深い内容だと言える。
・サッカーワールドカップの試合で、強国を破った日本の海外の記事の中に、「これが武士道の精神か!」「 世界を揺るがした日本代表に外国人から称賛止まず」 等があったが、武士道が書かれた100年以上前の印象がまだ続いていることに驚く。新渡戸の武士道の影響力が大きいと思う。
・新渡戸稲造は、まさに天才、日本固有の武士道の淵源(源泉)を、海外の人物や国を登場させて海外の人達に解き明かしをしている。
・矢内原忠雄訳が高尚で、難解なので、他の訳本と一緒に読むと分かり易い。(山本博文訳 佐藤全弘訳)
・新渡戸の武士道の淵源(源泉)の考えが、全て正しいとは言えないが、フランスの著名人ド・ラ・マズリエールの文章を紹介しているところなどから、新渡戸の本書に対する海外の印象は大変に強いものだったと言える。
・新渡戸は、その時代、海外に目を向けていることから、当時にしては突出した人物だったと言える。日本人は、出る杭は打たれる、目立つことをすると打たれるような雰囲気もあるので、新渡戸は日本人らしくない日本人だったかもしれない。半面そういった人物が日本をリードしてくれたともいえる。
第一章 「道徳体系としての武士道」
・矢内原忠雄訳が一番、格調高いと思う。
・1900年(明治20年)アメリカで発行された「武士道」の初版の表紙のタイトルは、BUSHIDO THE SOUL of JAPAN 「日本の魂」の訳はないので、不思議である。
・武士の掟・規律として生まれた「武士道」は、日本人の道徳としての道を照らし続ける光として、今も生きており、道徳体系をうち建てる「礎石」である。また、新渡戸稲造が「武士道」を書いた目的は、海外向けに、日本の道徳を、武士道を通して発信したということであり、必然的に英語で書かれたと理解した。
第二章以降で、三つの魂(宗教と戦争と名誉)との関連も含めて、武士道の源泉・特性と教訓を、詳しく学べることに期待したい。
◎フェア・プレーの精神は卑劣な行いを否定し潔さを肯定する、そこに愛があるのではないか。
◎BUSHIDO THE SOUL of JAPAN 「日本の魂」とタイトルにあるが、武士道は、男性中心であり、女性が入っていない。「日本」の魂とはいいがたい。
◎女性にも、掟や秩序の中があり、武士道の教えの中で生きていたと思う。
◎武士道に儒教の教えが入っている。
◎(補注)ラスキンの、戦争において涵養せられ平和によって浪費せられたこと~~
・命をかけて闘う、戦う、例えば信仰を守るために命を捨てる生き方は、武士道に通じるのではないか。
・戦争はいかなる場合でも反対の立場に立ちたいが、歴史上、人間は戦争を幾度となく繰り返し、そこから何度も復興してきた歴史がある。愚かさから学ぶということなのか。
・戦争を痛みや病と置き換えて読むのもあり
・戦争の悪しき面でも徳が高められ、魂の浄化があるということか。
・平和な日本にいると、平和ボケしているともいえるので、戦争の実体がわからない。
◎武士と言うと、時代劇のイメージが強く、「武士道」は今現在とかけ離れたものと言える。
◎今は、道徳教育が行われているとは言い難い状況だが、「武士道」を学ぶことによって、道徳教育の糸口がつかめるのではないか。「武士道」は、現代でも十分通用する道徳体系である。
◎新渡戸は、この本を37歳で執筆し、欧米ではベストセラーにもなり、まさに「われ太平洋の架け橋とならん」を実践したと言える。
「武士道」緒言
「武士道」緒言
新渡戸稲造「武士道」緒言(3~24頁)
訳者序(矢内原忠雄)、第1版序(新渡戸稲造)、増訂第十版序(新渡戸稲造)、
緒言(ウイリアム・エリオット・グリッフィス)
・武士道は、一部の特権階級のものか?日本の道徳は、古くからの八百万の神、儒教から成り立っていると思う。
・英語で書かれ、西洋の方に向けて出版された、という視点が興味深い。
・立ち居振る舞いから、日本のしつけが始まり、道徳になってきていると思う。
・樋野先生が、新渡戸稲造「武士道」を推薦している理由が理解できるように学んでいきたい。
・グリフィスは緒言の結辞で、新渡戸が第一版序の終わりで暗示した各国民それぞれの「旧約」を持つ、との新渡戸のキリスト教観に触れ、「これは完成するために来たりたまいしキリストの教えである、日本のキリスト教会は大気のごとく国風と化するであろう」と結論している。100年たった今、キリスト教はどれだけ「異国品たること止めて武士道の土壌に根を張って」いるだろうか。
・「グリッフィスは武士道を作法の掟として捉え、この日本文化を非常に高く評価した。新渡戸は、武士道によって養われた生きた精神的感覚をキリスト教の中に融合した。新渡戸のように、日本は自国の歴史・文明における最善のものを失うことなく、世界の提供する最善のものを取り入れて同化していくだろう。キリスト教は、諸民族に与えられた教義を完成するための教え」と考えていると理解しました。
・武士道が作法の掟と捉えると、人間関係の作法とも言えて、現代にも十分通じるものがあると思いました。また、諸民族に与えられた教義を完成するのがキリスト教との考えにどの民族の教義にも共通するつながりを認めていて、共感しました。でも一方では、西洋にあるキリスト教優位と考えの感も受けました。